ドーピング
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スポーツは感動を生む。

 

汗や涙を流して頑張っている人を見ているだけで胸が熱くなる。無意識に応援したくなる。

※2016年リオ五輪。男子100m×4リレー。日本チームの最終走者は, 一瞬, ジャマイカの最終走者(ウサインボルト)の前を走った。日本は銀メダル, ジャマイカは金メダルであった。手に汗握る40秒間のレースだった。

 

 

スポーツは平和だ。

 

1896年に始まった近代オリンピックは、世界大戦中は延期にもなったし、政治的理由から非参加国となる国もあるけれど、いざ開催されたら、純粋にスポーツに没頭している選手がいて、それを損得感情なしに応援している人がいる。スポーツ選手の大半は物欲を超えて競技を極めることに一生懸命になり、オリンピックはいわば国を背負った戦いなのに、戦争には発展しない。戦争でないならば、すなわち平和である。

※ヒトラー政権下で行われた, 1936年ベルリン五輪。

 

だからだろう、ドーピングという単語を耳にすると、胸がざわつく。なぜドーピングが悪とされるのかについて確たる理由を提示されなくても、ドーピングは『スポーツマンシップに反する』『スポーツの価値を損なう』と言われたら、簡単に受け入れることができる自分がいる。

 

しかし冷静に考えてみると、スポーツ選手が能力の限界に挑もうと訓練し、その訓練の一助として用いた手段をドーピングと見なし制限を加えるというのは、酷なことである気もする。どうしても人間には知恵が備わっているので、スポーツ選手が身体を鍛える過程で、ドーピングと言われてしまう手段に自然に行き着くのは、至極当然なことのようにも思えるからだ。

 

ドーピングの語源は、南アフリカの原住民(とある部族)において、厳格な祭礼や意を決した狩猟の前に飲んだ強い酒(ドープ:dop)に由来しているという。

 

スポーツの傍観者である私にも『スポーツマンシップ』『スポーツの価値』についての持論はあるけれど、いわば私の持論というべきスポーツ精神論と、現実に真剣勝負の世界にいるスポーツ選手にとってのドーピングとは、同じ土俵で考える事象ではないように思えてくる。

 

因みに、医学にはスポーツ医学という分野があるため、日本の医師は皆、否応なしに一度はドーピング検査について学ぶ機会がある。特にスポーツ医は、スポーツの現場でドーピング検査の証明書を発行する役割を担い、スポーツ選手の身体を預かるなど、人間の生命もさることながらスポーツ選手の選手生命というものを扱う、特異な医師だ。

 

学生時分にスポーツ医の先生の講義を受けたが、非常に興味深かったな…。

 

私たち人間は機械ではないから、白黒で区別できないものは『灰色:グレーゾーン』に分類する。それと同じようにドーピングにもグレーゾーンがあり、ドーピング検査基準にもグレーゾーンが存在するということを知った。

 

オリンピック史上でドーピング’疑惑’とされている事例は、どうやら、このグレーゾーンに分類されていたに過ぎないのだ。医学的かつ科学的にスポーツ選手の尿や血液の成分を調べ、その成分の一つが来年に禁止成分に分類される成分であれば、今年はグレーゾーンへ分類されるだろう。しかし、灰色に分類された選手は、社会的かつ心情的には黒であると評価されがちだ。

 

※1988年ソウル五輪。ジョイナーは, 女子100mと200mで世界記録を樹立。男性化した体躯, 29歳という若さでの引退, 38歳という若さで死亡したこと, ドーピング検査技術が未発達であったことなどが, ドーピング疑惑を生んだ。まさに今日, 東京五輪 女子100mにおいて, ジャマイカの選手が33年ぶりにジョイナーの五輪記録を更新したが, 五輪以外のジョイナーの世界記録は未だ破られていない。

 

一方で、グレーゾーン的逸話には惹きつけられやすく、ドラマチックに感じる部分もある。とすれば話の論点は、ドーピングそのものが悪だ何だという事ではなく、ドーピングという人間臭い性質のものを生みだす真剣勝負の世界にあるスポーツというのは、しのごのいわず、単純に魅力的であるとも言える。スポーツは精神の糧だ。

 

 

テレビの前で『頑張れー!』とオリンピック選手に声援を送りながら、何となく日常のストレスから解放されているこの頃です。

 

 

 

以下、ドーピング検査の実際について、簡単に記載致します。特にスポーツ大会に縁がある方などは、自身の選手生命を守るためにも知っておくべき知識だと思われます。また、スポーツと無関係な方にとっても、なかなか興味深い検査だと思われます。ぜひ御一読ください。

 

ドーピング検査は、唐突に行われます。競技終了直後に呼び止められ、検査をするよう促されます。一般的には尿検査で行います。病院で行われる尿検査と違うところは、選手がトイレで排尿する時、選手と同性の検査官が傍で排尿の状況を確認するというところです。これは、本当に検査対象となる選手の尿であることを確認するためです。

男性選手は真横から、女性選手は正面から、排尿しているところを確認されます。スポーツ医の話では、検査する方(検査官)もされる方(選手)も、何だか気まずい感じがするとのこと。しかし、男性選手の中には『見ろ~』と言わんばかりに元気よく排尿し、検査官が『失礼します!』と恐縮しながら排尿状況を観察するような、明るい雰囲気で行われることもしばしばだとか。ちなみに未成年の選手に対するドーピング検査については、親の許可を得て行っています。そして検査官が検体(選手から採取した尿)に不正な物質を混入することの無いよう、カップに採った尿は選手自身が持ち運びます。

 

そして採取した尿に、蛋白同化男性化ステロイド(SSA)、EPO(造血剤)、成長ホルモンなどのペプチドホルモン、アンフェタミン(覚せい剤)、利尿薬…などが含まれていないかをチェックします。

 

お気づきでしょうか?

 

つまり、筋肉モリモリになるような薬、気分が高揚するような薬、体重を絞るような薬、酸素を取り込みやすい体にする薬などが禁止されているのです。

 

そこで問題になってくるのが、病気に対して使用している治療薬です。糖尿病治療で使用するインスリンは体重の変化に関係するし、気管支喘息で使用する吸入薬は気管支を広げて空気を取り込みやすくする気管支拡張薬や炎症を抑えるためのステロイドが含有されています。また、高血圧症や心不全で使用するβ遮断薬は心臓を休める薬なので緊張を抑え集中力が増すし、利尿薬は体重減少を促します。

 

よって、何らかの病気を持ち、定期的に治療薬を服用しているスポーツ選手は、『治療目的で薬剤が必要である』という証明書が必要になります。TUE(治療使用特例)を申請しなければなりません。医師が選手から使用している治療薬について話を聞き取り、TUEをJADA(日本アンチドーピング機構)に申請します。

 

因みに、世界大会などでのドーピング検査は、31カ国に設置してあるWADA(世界ドーピング機構)という機関が担っています。そしてこれらの機関にもチェック機構がはたらいています。実際、過去にはモスクワ(ロシア)のWADA機関で不正が行われたという事例があり、その検査機関には資格停止命令が出されました。ロシア選手から採った尿カップを、トイレに作った秘密の壁を通して他人の綺麗な尿カップとすり替えたという事件でした。

 

とにもかくにも、ドーピング検査で引っ掛かることは、スポーツ選手にとって、とても痛手になることは間違いありません。砲丸投げの室伏選手は、以前、金メダルを取った外国人選手がドーピング検査で陽性となり金メダルを剥奪されたことで、試合後に銀メダルから金メダルに繰り上がりましたが、やはり、後々ではなく、表彰式で金メダルを贈呈された選手の姿を見て、国歌が流れる中で日の丸が昇る光景を見たいものです。また、1988年のソウル五輪(陸上)では、ベンジョンソン VS カールルイスの男子100m決勝が熱く繰り広げられた後、ベンジョンソンが薬物失格となりました。スタノゾールという蛋白同化男性化ホルモンが検出されたとのことでした。

 

※カールルイス(左), ベンジョンソン(右)。1988年ソウル五輪にて。

 

ドーピング禁止が叫ばれるようになった背景には、古くは1865年に水泳選手がアンフェタミン(覚せい剤, 興奮剤)を使用したという事例から、1960年ローマ五輪の自転車競技でオランダの選手が興奮剤を使用し死亡した事例、競馬において市販のアリナミンVを大量に飲ませられた馬が失格になった事例、2000年代には自転車競技のツール・ド・フランスにおいてドーピングによるタイトル剥奪が多発するなど、様々な出来事があります。

 

※2006年ツール・ド・フランスにて。観客が『ツールドドーピング』とドーピングを風刺した垂れ幕を掲げるほどのスキャンダルに発展。

 

そして意図的に薬物を使用していないとしても、ラグビー選手が使用した育毛剤にメチルテストステロンという男性ホルモンが含まれていたことで問題になったり、飛行機が苦手という理由で飛行前に飲んだお酒(アルコール)が問題となったり、風邪薬に含まれているエフェドリンなどもドーピング検査では引っ掛かる物質に含まれています。禁止薬物や監視薬物が何か、ということについて語りだせば、コーラや玉露(日本茶)に含まれるカフェインにまで話は及びますし、また、市販のサプリメントに至っては、国によっては成分表示が曖昧なものも数え切れないほど沢山あります。

 

スポーツ選手の方は、ぜひぜひ、自分が摂取している物について十分に注意してください。禁止薬物や監視薬物の規定については随時更新されているため、試合後に『知らなかった』と言っても通らないことが多く、せっかくの功績や記録を剥奪されることにつながります。最近では、ロシアのテニスプレイヤーであるマリアシャラポワ選手が、2006年から医師の処方のもと使用していたメルドニウム(疲労回復やスタミナ増強に効果があるとされる薬剤)が、2016年にWADAによって禁止薬物に認定されていたことを見落としていて、問題となりました。

 

インターネットであらゆるサプリメントや薬物などを簡単に購入できる時代ですので、何の成分が含まれているのか、信用に足る商品なのか、成分表示は正しいのかなど、自身で調べることができる知識を持っておくことが肝要です。

 

スポーツにおいて、記録更新のために用いられる薬物や訓練方法は、恐らくこれからも常に開発され続けます。その度に、スポーツのルールとして、是とするか非とするかを問う…。これはもはやイタチごっこともいうべき有様です。現時点でWADAが既に、今後発生してくるであろう ‘遺伝子ドーピング’ の禁止を規定していることからも、このイタチごっこの凄まじさが垣間見られます。

 

※ボクシング映画『ロッキー4』では, ロッキーの訓練方法(①)は善とされ, ロシア人選手の訓練方法(②)は悪として描かれています。

①雪山で, そりを引きながら体を鍛えるロッキー。

②運動機器を駆使してトレーニングに励む対戦者。

 

泥臭い努力は大いに人を引き付ける。一方、知恵がある私たち人間は、より高みを目指すための努力として、様々な方法や薬物を開発していく。そして、時代の流れに沿いながら、スポーツの公平性という曖昧な概念を考慮しながら、科学的かつ医学的根拠も加味したうえで、常に更新され続けるドーピング規定。それをひっくるめて、やはりスポーツとは奥が深いものだと思わずにはいられません。

 

 

最後に・・・

スポーツ選手の方は、自身が服用する薬(風邪薬、胃腸薬)、飲み物、サプリメントが、ドーピング検査に引っ掛からないかどうか、十分に気を配っておきましょう。そして困った時にはスポーツ医に相談しましょう!

 

日本スポーツ協会のホームページには, 有効期限のある『使用可能薬リスト』が随時更新されて記載されています。例えば上の写真は2021年4月の改定版であり, 有効期限は2021年12月31日までとなっています。

 

(某大学医学部の授業講議も参考にしています。写真はGoogleやYouTubeより拝借させていただきました。)

 

 

2021年07月31日