私には、弟がいます。

 

3歳下で、父(前院長)が亡くなっている今では、家族内で唯一の’男’です。とはいえ私の感覚では、亡き父も弟も’男’というより『父という’性’』『弟という’性’』であり、解剖学的な男女の性差を除けば’男’と定義しにくい存在なのです。

 

誰しも一度は『男だから女の気持ちは分からない』とか『女だから男と同じことはできない』という台詞を耳にしたことがあると思います。確かに男女を比較する時、究極の状況では性差を加味しなければならないと思います。例えば、男は頑張っても子供を出産することはできないし、100mを世界最速で走りきることができるのはやはり女ではないと思います。つまり、持って生まれた身体的機能に依る事柄においては、男と女は比較対象にならないし、まして優劣をつけることはナンセンスであるということです。

 

私の弟は、小学生くらいの頃は同学年の子と比べて特別に大きな体格というわけではなかったけれど、いつの間にか筋肉がたくさん付いて、どちらかと言えば『体格が良い』と他人に言われるような容貌になっていました。それでもやはり私は、彼を’男’というより単なる’弟’としてしか定義できません。また、私たち(妹、弟、私、姉)が親から受けた教育は男本位でも女本位でもなかったため、実際、私が弟に対して『’男’だから○○するべきである』『’男’だから○○するべきではない』と何かを強要したことはありません。

 

当院診察室にて

(右:弟 形成外科医,九大病院勤務)(左:私)

 

ただし『’弟’だから○○できるようになって欲しい』『’弟’だから○○して欲しくない』ということは多々あります。それは、彼が持って生まれた機能(男女差があるとされる視床下部の一部の神経核の大きさが私よりも大きいであろうという解剖学的構造の違いや、テストステロンといった男性ホルモンの分泌量が私よりも多いであろうという血中ホルモン量の違い)について指摘しているのではなく、私が理想とする男’らしさ’に近づいて欲しいという、私の身勝手ともいえる望みなのです。

 

思い起こせば弟が中学生や高校生の頃は、突拍子もないお馬鹿な言動で何度も騒動を起こし、テロリズムに近いとさえ思ったこともありました。それから紆余曲折を経て、彼が30歳を過ぎた頃から、私には無い冷静さを持っている弟なのだと気付きました。私という女性が弟という男性に求めるものは、医学的見地の’性’をひけらかす姿ではなく、性の違いから生まれる男’らしさ’を兼ね添えた姿なのです。

 

冷静であるというのは、対峙する側に安心感や包容感を与えます。そうすると、自然と頼られることにつながります。私が何か困難に当たった時、解決策を見いだせずに焦って感情的になっている時、子供の頃と比べて複雑な問題が増えるに従い、弟に救われることが確実に増えてきました。

 

私にとっての健太郎は、頼もしい’男’ではなく、唯一無二の頼りがいのある’弟’です。そんな弟を持っている私は、幸運な姉貴です。

 

2020年07月01日