BLOG
注意 ٩(๑˃̵_˂̵)و ‼️

 

 

今月の平日午前診療中、当院に泥棒が侵入しました。

 

ふとスタッフが控え室に物を取りに入った時、スタッフのロッカー内のバッグが根こそぎ盗まれていることに気付きました。控え室を調べたところ、換気のため開放していた窓の桟に靴の足跡を発見。すぐに警察に電話し、捜査が開始されました。

 

我々も独自に盗まれた携帯電話のGPSを追うなど躍起になり、警察はマリナタウン周辺(当院周辺)の防犯カメラを回収しました。

 

その後なんと・・・当院スタッフの根強い頑張りで、当院スタッフ自ら、マリナタウン内の茂みの中から、スタッフ皆の鞄と携帯電話(スマホ)を発見しました。けれど、鞄からは現金やクレジットカードや鍵、免許証や保険証が抜かれていました。

 

そして間もなく警察から犯人を特定したとの報告があり、速やかに犯人が逮捕されました。犯人逮捕とほぼ同時にテレビ局からニュースに取り上げるとの電話もありました。

 

犯人は当院以外でも盗みを働いていたようで、当院周辺に土地勘の無い高齢男性でした。

 

病院の機能とは、医療というサービス業の一端ですが、曲がりなりにも人命救助の場です。その病院内で強盗や殺人を働くことは、いかなる理由があろうとも、到底、許されることではありません。

 

当院で起きたこの事件は西警察署 刑事課で扱われ、署内でも ‘病院での事件’ とのことで重要視いただき、事件発生から犯人逮捕に至るまでの数日間、他の事件も抱えてある中、迅速に大変に御尽力いただきました。本当に感謝申し上げます。

 

この経験を広く地域の方々に知っていただこうと思い、そして、この地域の安全を担保すべく御協力いただきたく、報告申し上げます。

 

皆さんも、ぜひ、防犯対策について考え直してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

2022年06月24日
首と刀

 

 

切腹。

 

それは読んで字の如く腹を切ることであり、刃物などで自らの腹部を切り裂くという自殺の方法。日本独自の風習として海外でも知れ渡っている。

 

最近、ある高校生との雑談の中で切腹という単語が出てきた流れで、『首って本当に刀で切れるんですか?』という質問を受けた。勿論、私は生きている人間の首を刀で切ったことは無いが、①史実と②居合抜刀道を考慮すれば、恐らく、人間の首を刀で切断することは可能だろう。

 

①史実

歴史上の資料より、切腹の際に介錯人が刀で首を切断していたと記録されている。

 

②居合抜刀道

刀で首を切る時の感覚は、竹に畳表を巻き付けたものを刀で切る感覚に似ているのだそう。実際、現代でも居合抜刀道としての文化があり、その道の達人は巻藁などをスパッと切断してしまう。

(浅草なびより)

 

そして武道もさることながら、刀の切れ味も大事であろう。日本刀は1本1本が手作りの鋳造品であり、その切れ味は『試し切斬り』で確認する。日本刀は海外の刃物と比較して、格段の硬度と切れ味を備えているらしい。

(日本史大事典より)

 

 

しかし個人的には『頸部(首)の関節って、そんなに簡単に切れるのか?』という疑問は残る。何故って、学生時分の解剖学実習では、関節なんて そう簡単には切れなかったから。

 

医学生の解剖学実習では、御献体を隅々まで解剖させていただく。私の出身大学では、1体の御献体を1グループ4~5人で解剖した。下の写真のような体勢で、メスを握って、ゆっくり丁寧に表面から始まり深部~各臓器に至るまで全て解剖し、その構造を見て触って確認する。

(私の大学卒業アルバムより.私は卒業アルバム委員でした.)

 

頸部(首)の皮膚の下には、筋肉、骨、靭帯、神経、血管などが密集している。重たい脳を支える頸椎(首の骨)が有り、心臓から脳へ送られる血液が流れる血管や、脳からの指令を体幹(体)の臓器や四肢(腕や足)に伝える神経が走っているのだ。

(解剖アトラスより)

 

 

 

切腹の際の介錯人は、この頸部を刀で一刀両断する。一太刀で、感覚や運動を司る神経を切断し、脳への血流を遮断し、頸椎を折る。

 

(忠臣蔵錦絵コレクションより)

 

 

寂然不動の心境で屈強に刀を切り下せば、人間の首を切ることはできる。そうは納得しても、やはり一太刀で首を切る行為そのものには驚愕する。そして、切腹という名の儀式が日本に存在していたことに、至極、儚さを感じる。

 

 

 

 

2022年05月30日
感覚器が伝える先に

 

 

 

普段の診療で『最近、難聴でね…』と補聴器を購入されたという患者さんや、『コロナが落ち着いたら白内障の手術をしてもらおうかな』と報告される患者さんなど、数多くいらっしゃいます。

 

解剖学の上では、眼、耳、鼻、皮膚などは『感覚器』と呼ばれ、一般的に ‘五感’ として知られる『感覚を担っている臓器』を指します。そして医学的に『感覚』とは痛覚、温覚、圧覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、平衡覚などに分類されます。

 

痛くも痒くもないのに病院に行って敢えて治療を希望されるというのは、その感覚器がいかに生活の中で重要であるかを物語っていると思います。

 

ちなみに医学的には様々な複雑な感覚の伝導路が知られています。脳の表面(大脳皮質)には運動感覚の中枢があり、それぞれ運動野(一時運動野)感覚野(一次体性感覚野)と呼ばれています。

 

ペンフィールドマップ:脳外科医ペンフィールドが、脳外科手術の際に切開した脳に電気刺激を加えて(運動野や体性感覚野に電極を当て)患者の反応を観察し、大脳皮質と身体部位との対応関係をまとめた脳の地図です。運動野も感覚野も、身体の各部位を受け持つニューロン(神経細胞)が、ホムンクルスが逆立ちしているように分布しています。

ホムンクルス:大脳皮質の相当領域の面積に対応するように体の各部分の大きさを示した人形。通称、脳の中の小人と言われております。

(病気が見えるvol 7)

この感覚受容体(感覚器)~伝導路~脳のどこかに少しでも異常があれば感覚も異常となるわけです。例えば切断によって失ったはずの手足が存在するように感じられる幻肢運動という現象がありますが、それは上記の脳地図が書き換わっていることで生じると言われています。

 

さらに神経の解剖、伝導路、脳の機能に至るまでの生理学を知ると、複雑で難解ではあるけれど、非常に興味深いものがあります。

 

知れば知るほど『見える』『聞こえる』過程においては自分の意志が全く働いていないことを思い知り、『確かに見える』『確かに聞こえる』ことに懐疑的になってしまいます。もはや ‘存在すること’ すら疑わしくなってくると、それはもうアリストテレスの第一哲学の様相です。

 

とはいえ一方で、医学や哲学の追及なんて、どうでもいいと思う場面もあります。

 

医学的にいう感覚と自分が思う感覚に乖離があったとしても、自分にとっての感覚は自分が思った通りなのだから。哲学的に存在していないと言われようとも、自分は存在していると思って生きているのだから。

 

桜の花びらが舞っている光景を見れば春を感じることができるけれど、その光景を目にせずとも、暖かい風が肌に触れただけで春を思うことができる。実際に大事な人の手を握っていなくても、声を聞いただけでその人と繋がっているという想いを馳せることができる。

 

感覚器が伝える先に有るものは、曖昧な感情だ。それは医学的には立証されないけれど、他者には完全に理解はされないけれど、自分にとっては確かなものだ。それで良いし、それが大事なのだ。

 

 

 

The best and most beautiful things in the world cannot be seen or even touched. They must be felt with the heart.世界で最も素晴らしく最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできないのです。それらは、心でしか感じられないのです重複障害者(盲聾者) ヘレン・ケラーの言葉より

 

 

 

おすすめ映画:

ヘレン・ケラーと、彼女の家庭教師であるアン・サリヴァンことサリバン先生について描かれた戯曲です。クライマックスに至るまで世界中の多くの人が既に知っている内容ですが、感動します。ヘレン役のパティ・デュークが、オーディションの際に大きな物音に反応しなかったという逸話も有名です。

 

 

 

2022年03月31日
暦を思う

 

 

予言や占いを信じる質ではないけれど、運が無いとか運が開けるとか、根拠のない『運』という理由を持って物事を片付けようとすることがある。運が無いから さっさと諦めて次なる目標へ向かえるならば、それで良し。運が開けるから それに乗じて幸せになって、なんら悪いことは無い。

 

 

2022年は地の暦では『壬虎』

地の暦とはすなわち干支(正しくは十干十二支)なわけだが、調べてみると『壬』は土の下で芽が膨らんで土がグンッと盛り上がるイメージであり、『虎』は生命誕生を表しているのだそう。

 

2022年は天の暦では『参宿』

天の暦とはすなわち占星術でいう二十八宿なわけだが、調べてみると『参宿』は嵐の神が宿ると言われ風雨が汚れを流すイメージのようだ。

 

十干十二支は十干と十二支の組み合わせで(10と12の最小公倍数で)60年周期で巡り、二十八宿は28年周期で巡る。よって天と地の暦は60と28の最小公倍数である420年周期で巡るため、『壬虎』と『参宿』が重なる2022年とは、1602年に次ぐ運勢の年ということになる。

 

日本では1600年に関ヶ原の戦いがあり、1603年に徳川家康が江戸幕府を開いた。以降、パックスエドガワーナ(江戸時代の平和)と称された江戸時代が265年間続いた。『壬虎』と『参宿』が重なる1602年は、徳川家康という日本の新しいリーダーが、パックスエドガワーナをもたらす布石を打っていた年なのだ。

 

 

ならば2022年も、きっと新たな平和が芽吹くはず!

 

 

因みに当院は前院長が開業して以来30年近く経過しますが、亡き前院長(私の父)は寅年であり、また、開業以来 今もずっと当院を支えていただいている中道婦長も寅年です。

 

(寅年の婦長と前院長.ある日のクリニック忘年会にて.)

 

されば、困難な事があろうとも、当院は『虎は千里行って千里帰る』勢いを持って、2022年も頑張って乗り越えられる運に恵まれているであろうと思っています。

 

 

 

明けまして、おめでとうございます。

 

 

 

2022年01月03日
ニイタカヤマノボレ

 

 

真珠湾攻撃から80年が経過。

 

日本時間で1941年の12月8日(今日)、旧日本軍がハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃し太平洋戦争が勃発した。ニイタカヤマノボレの合図とともに決戦の火ぶたが切られた。

宣戦布告の最後通牒が真珠湾攻撃終了後(1時間ほど)であったことから騙し討ちであったとも言われている真珠湾攻撃だが、その他にもルーズベルト大統領(米国)の陰謀論、チャーチル(英国)の陰謀説など様々な評価がある。どちらにしても当時、日本の外務省と各国の大使館の間で行われた暗号通信は米国には筒抜けであり、9割がた解読されていたという。

 

野村大使のタイピングがもっと上手で、英文の通告があと数時間早くハル国務長官に手渡されていれば、真珠湾攻撃は避けられた事態だっただろうか?例えばその時インターネットが普及していたとしたら、太平洋戦争は起こらなかっただろうか?いや、既に様々な思惑が渦巻いていた世界大戦であり、そう単純ではないであろう。

 

歴史に’もしも’なんてナンセンスだと思いつつも、ついぞ想像してしまう…。

 

戦争経験者でない私が太平洋戦争の何たるかを論じる資格は無いが、亡き(母方の)祖父は確かに『負けるべくして負けた戦争であった。』と言っていた。ソ連で日本人捕虜としての生活を送る中で、ロシア人女性が堪能な日本語で日本人捕虜の世話をしていたことから、また、日本の状況が各国に筒抜けであったことを目の当たりにしたことから、日本の近代化の遅れを肌で感じたと言っていた。

 

ソ連に抑留された後、戦後は三菱マテリアルに勤め、端島の天皇と謳われた軍艦島の(最後の)砿長の任を受けた祖父は、とても勉学が好きな人だった。ソ連抑留中はロシア語を学び、現役引退後は若者に交じって英語を学んでいた。20代は戦争に明け暮れ、その後は戦後の朝鮮戦争特需を物にし、また、炭鉱事業の指揮をとりながら労働紛争の裏も表も知り尽くし、それは怒涛の人生ではあるが、私からすれば、とても人間臭い生き様に感じ羨むべき人生だ。

(長崎の端島. 通称:軍艦島.)

 

ところで最近、中高生の姉妹を子供に持つ30歳代のお母さんに『今の子供たちってAI(人工知能)の時代になっているから仕事を探すのも大変ですよね。人に聞いたんですが、これからは薬剤師さんとかも必要なくなるって…。近い将来そうなるんでしょうか?』と質問された。

 

何でも機械化されることを想定し、今後、子供たちに要求されるであろう仕事がどんな性質のものかを憂いているという親心だ。

 

彼女に対しては、薬剤師さんの仕事とは医師が処方した薬を患者さんに手渡すだけが仕事ではなく、薬の開発をはじめ医療に欠かせない分野の研究をしていることを前置き、現時点で薬剤師さんの仕事がAIにとって代わられることは無い旨を説明した。

 

現代のAI技術では自らの意思を持つには程遠く、所詮、AIは手段でありデータ次第で挙動が変わる側面を持っている。人間の脳は運動や言語の中枢であり、したがって、私たち人間は小さな弱い赤ちゃんを程よい力で抱くことができ、あるいは言語でコミュニケーションをとることができる。しかし、ある私の患者さん1人の介護すら、現在の精巧なロボットの技術をもってしても不可能である。AI搭載のロボット開発は盛んで面白い分野であり、その発展は素晴らしいと感心するが、現時点で人間の代わりとなるものではない。

  1. (ダヴィンチ:内視鏡手術支援ロボット)

ロボットといっても機械が自動的に手術をするわけではありません。医師が内視鏡画像を見ながら操作します。ダヴィンチシステム独自の機能で、手振れが防止されるという利点があります。研修医の頃、前立腺癌のダヴィンチ手術に立ち会った時、手術室の端っこにデモ用の機械が置いてあったので、私も機械をいじってみたことがありますが、確かに普通の内視鏡よりも思い通りに操作しやすい感じがしました。

 

 

確かに現代社会においては、ハングリー精神を持つことであるとか、戦後のどさくさで成り上がり逆転劇を起こすような芸当は困難な社会だ。やるべきことが転がっているわけではなく、また、やるべきことがあったとしても細分化され専門性が高く複雑で難解な事柄が多い。

 

大事なことは、想像力と創造力を養うことだと思う。世の中がどう変わろうと人間の本質はさほど変わらないのだから、要は自分次第だ。

 

 

戦争の悲惨は知れたことであり、決して善しとすべきものでは無いが、『ニイタカヤマノボレ、カクインイッソウドリョクセヨ!』なる暗号電報の文面には、大和魂ともいうべく矍鑠たる意志を感じる。そして私も祖父のように、何かしら確実な足跡を残したい。

 

今年1年も走るように終わりつつある。まだ何も達成していないからこそ、来年も粛々と奮起しなければならない。

 

 

 

2021年12月08日
終わりは始まり

 

 

いわゆる『お腹の風邪』をひく人が多く来院される今日この頃です。ノロウイルス感染も流行っており、下痢症状の患者さんが多いですね。

 

そして毎年のことですが、多くの受験生が病院を受診される時期でもあります。私の妹が大学生の傍ら家庭教師のアルバイトをしていることもあり、何だか現在の受験事情などに詳しくなってしまい、そうすると、自然に自分の時代の受験期が思い出されます。

 

あの頃、東京大学の入試問題で数学の1⃣の問題が『加法定理を証明せよ』であり、受験生や受験業界に衝撃が走ったことを思い出します。

 

唐突に数学の話を持ち出しましたが、ハッキリ言って私は数学が苦手です。何故かというと、数学のテストでは平均~合格点レベルにしか到達できなかったし、解答の通りに解答することができるというだけで、独自の解法を導き出すという芸当はできなかったからです。数学ができる!という実感を持ったことが無いから、結局は苦手科目でした。

 

けれど、そんな私でも数学って興味深いな~と思えることがあります。

 

 

それはズバリ『0 (ゼロ) 』の概念。

 

 

7世紀頃のインドで取り扱われるようになった0(ゼロ)という数ですが、私たちは既に『インドは0(ゼロ)を発見した国』と認知しており、言わずもがな『0(ゼロ)=無』という感覚を、多くの人が持っていると思います。※今回は、0(ゼロ)が’存在する’という議論については省略し、0(ゼロ)が存在するとしたうえで話を展開させていただきます。

 

 

そして『0(ゼロ)が存在する=無限が存在する』という理論の壮大さよ…。

 

 

1/100は1/1000より大きい数です。1/10は1/100より大きい数です。つまり分数の分母が小さければ小さいほど(分母が0(ゼロ)に近づけば近づくほど)大きい数となり、ひいては∞(無限大)に近づくということです。

 

0(ゼロ)が存在するということは、とりもなおさず無限が存在するということなのです。

 

ちなみに古代では0(ゼロ)の存在を認めるということは、無限を認めるということであり御法度でした。終わりがない無限というのは恐れられていたのです。この世はお盆のような形であり、それを象が支え、その象を亀が背負っており、亀は海に浮かんでいる。海の端はどうなっているかについては『法典に無いため考えてはいけない』とされていました。

 

 

 

0(ゼロ)=『無』が存在するから『無限』が存在する。

 

 

この数学は、宇宙の存在にも発展する。

この数学は、ある道徳にも通じる。

 

例えば死を無とすれば、死はゼ0(ゼロ)と置き換えられる。死を0(ゼロ)とするならば、それを起点として無限が存在する。ならば、死は無限への’旅’の始まりとも言えよう。

 

 

終わりとは始まりでもあるのだ。

 

 

2021年11月30日
医療ドラマ

 

 

ここ最近の1ヶ月間で『先生、ドクターXっていうTVドラマ見てる~?』と、数人の患者さんから質問された。

 

見てはいない。しかしシリーズ1は見たことがあるので『ドクターX』というドラマの概要は知っている。(ちなみに主演の米倉涼子は、私が中学生の頃、何かのドラマで4人姉妹のうちの1人を演じていた頃から好きな女優さんです。)

 

中学生や高校生の頃は毎日のようにTVドラマを見ていたが、ある時期からテレビを見なくなった。インターネットで興味があるものしか見なくなった。そして、医師になってからは、特に医療系のドラマを見る機会が減った。

 

昔は面白がってたくさんの医療ドラマを見ることができたのに、医師になると楽しめる医療ドラマが減ったというのは、とても残念なことだ。特に救急医療が絡む医療ドラマは、セリフや動作が大袈裟に感じ、何だか見ているこちらが恥ずかしくなるという変な感覚になる。当直で夜中に起こされて病院の入り口で救急車を待ち、到着した瞬間、心臓マッサージをするなんて経験は殆どの医師が経験しているわけだが、その現場に格好いい台詞なんて飛び交わない。そもそも寝起きの状態で格好つける気力も無い。目の前の人間を死なせてはならないという焦りしかない。使命感というより、全責任が自分にあるという恐怖感とも言うべきものだ。だから、わざわざドラマでそんな光景の再現を見たいとは思わないのだ。

 

それは、私が銀行員である患者さんに『半沢直樹って面白いですよね~。』と話を振ったら『まあ、現実には無いことだね。』と返答された患者さんの感覚や、裁判官を退職された後に弁護士を開業されている患者さんに『私、刑事ものとか弁護士もののドラマが大好きなんです~。』と言ったら『そうですか…。』と淡々と流される感覚と似たようなものだろう。

 

とはいえ、医療に飽き飽きしているわけでもないし、医療に携わるのを止めたいわけでもない。むしろ、日常的に無意識に医療にどっぷり浸っている。

 

①例えばバスや電車に乗っているときに、隣で病気についての会話をしている人がいると、割って入って詳しく説明したくなる。さらに、その会話内容が誤解されているような内容であった場合、ムズムズして黙っていることに苦痛を感じるほどだ。逆に何か質問された暁には、怒涛のように説明しまくってしまう。②ちょっとした雑談(笑える行動や下ネタなど)のはずが、いつの間にか、体や病気の話になってしまう。

 

いわゆる『医者あるある』だ。

 

そんな私だが、今でも楽しめる医療ものの作品がある。今でもたまに見たりして感じ入る作品がある。大仰に感動するわけでもなく、さほど興味深いわけでもないが、強く印象に残っている作品がある。

 

そんな作品(タイトル)をいくつか紹介します。

 

白い巨塔

昭和53~54年に放送された田宮二郎主演のドラマがおすすめです。そもそも原作が山崎豊子の小説なので、題材自体が傑作だ。平成になってリメイクされた白い巨塔よりも、韓国版の白い巨塔よりも、昭和に放送された白い巨塔が最も小説に忠実であり、一番おすすめです。当然、制作された時代が古いので現在の医療の実際とは全く異なるけれど、それは問題になりません。そして出演者も佐分利信小沢栄太郎金子信雄加藤嘉児玉清…など最高の役者ばかりです。

 

JIN‐仁

例えばこのドラマ(原作は漫画)を見たことが無い医師100人に『江戸時代にタイムスリップするとしたら、何を持っていく?』という質問をしたとしよう。恐らく、8割くらいの医師は『抗生剤』と答えるだろう。抗生剤の歴史は医師の常識であり、それを物語にされるとドラマチックに感じる。個人的には、中学校の時から女優 中谷美紀が大好きだったので、花魁役の彼女を見ることができて嬉しい。

 

ブラックジャック

日本の誇る漫画家、手塚治虫による作品。説明は不要と思われる。私が初めてこの漫画を読んだのは小学生の時だった。意味が分からない部分もあったが単純に楽しめた。そして大学生になって色々な疾患を学んだ後に読み返してみると、なんと面白いではないか。奇形種という婦人科疾患を学んだ時、ピノコを作ったブラックジャックは天才だと改めて実感した。自分が医師になって初めて随所に医学が散りばめられている箇所が目に入るようになり、面白さが深まった。これは医師になって得したな~と思うことの一つだ。

 

海と毒薬

遠藤周作の小説。昭和61年には映画化されており、若かりし奥田瑛二渡辺謙が主演を演じている。太平洋戦争末期に大学病院で行われた米兵捕虜への生体解剖実験を題材にしたものだ。舞台が九州帝国大(現・九州大学)医学部であり、九州県民である私にとっては印象深い。正当化されている人体実験としては、エドワードジェンナーによる種痘(天然痘の予防接種)の実験や華岡青洲による全身麻酔の実験などが有名どころだろう。しかしこの作品は、負の遺産としての人体実験が主題だ。ロシアの睡眠実験、アメリカの梅毒実験、ナチス政権下での人体実験などの非人道的人体実験に並ぶと思われる行いが描かれている。人間の残酷さを知ることができる。

 

花埋み

自分が医師になるということは、女性の医師になるということだった。だから一応、読んでみた渡辺淳一の小説です。日本初の女医といえば楠本イネ(シーボルトの娘)が有名ですが、日本で初めて医師免許を取得した医師は、荻野吟子とされています。荻野吟子の生涯を描いた小説です。

 

高瀬舟

安楽死の是非をテーマにした森鴎外の小説です。読んだというよりも、中学校か高校の国語の授業で読まされた小説。そして京都旅行に行ったら一度は高瀬川を確認し、小説を読んで思い描いていた川と目の前を流れている川の相違に落胆しながらも、ぼんやりと島流しにされる主人公(喜助)のことを考えてしまう。自分にとって解決策が無い問題というのは耐え難い。けれど「私だけじゃない、皆、何かしらの十字架を背負っているのだから…」と奮起して、悲劇のヒロインから脱する努力をしながら、笑って悩みを吐露できるよう強くありたいものです。

 

 

 

結局のこと、人間の深層心理に語りかける物語には惹きつけられるということだ。テレビや小説の中であれ、毎日の現実的な仕事の中であれ、これからもたくさんの医療ドラマに出会いたい。

 

 

2021年10月21日
壱万円札

 

新札が刷られる。

新しい壱万円札だ。

 

(造幣局HPより)

 

ビットコイン、イーサリアムといった仮想通貨もある現在だが、やはり、お札はお札で興味深い。とはいえ私は難しい金融事情には全く精通していないし、また、お金をうまく転がす手腕も無い。だから単に、新札を目にした瞬間に個人的に色々と感じるところがあるだけだ。

 

福沢諭吉が何を成したとか、歴史的にどうだったとかではなく、私にとって『諭吉』は、もはや単位として存在していたようなものであり、その『諭吉』が消え失せていくことが、単純に淋しい。

 

そして、個人的にはアラビア数字よりも漢数字を目立たせて欲しかった…。外国人にも分かりやすくするというグローバルな見解の元にアラビア数字が中央にあるとのこと。それに異存はないが、感情的には壱万円札の重みが薄れたように感じる。子供の頃に流行っていた十億円札なるおもちゃのお札には、アラビア数字で仰々しくゼロが9個記載されてあったが、本物の日本の紙幣となると、やはり漢数字が中央に有って欲しかった…。

 

一方で、新札に施された偽造防止技術には驚かされる。世界初の最先端のホログラム技術が導入されているという。紙幣を傾けることで肖像画が立体的に見えるなんて、本当かしら。見るのが楽しみだ。

 

皆それぞれに、それぞれの価値を、紙幣に見出していると思う。仕事の報酬として充実感や達成感を得るために頑張ったり、満腹感を得るための物を買う手段でもあり、大いなる快適や快楽を得るために支払うべき代価でもある。ある観点からは『紙幣は単なる紙である』と言うが、普段生活するうえでそう言ってしまったら、身も蓋もない。

 

新札を発行することの意味や日本経済 云々はさておき、ふと楽しませてくれた造幣局に、ありがとう。

 

(造幣局HPより:造幣局桜の通り抜け道)

 

特に価値はないけれど、今は亡き大好きだった祖父に貰ったお守り代わりの百円札(板垣退助)と一緒に、福沢諭吉を一枚、しまっておこうと思う。

 

 

2021年09月03日
順列

 

『若者』を辞書で引くと『歳の若い、元気のある人たち』と記載されている。

 

ここ最近は、あまり病院に縁がない若者が病院にやって来る。周知であるようにワクチン接種でやって来る。今年5月から毎日、新型コロナウイルスワクチン接種をクリニックで行っているが、やっと若者に順番が回ってきたワクチン接種。

 

普段の診療では心身を病んでいる人、持病がある人と対峙することが多いのだが、ワクチン接種をしに来院される若者は、往々にして元気だ。

 

ワクチン接種の優先順位として、感染リスクが高い人や感染後の重症化が大いに懸念される持病がある人が優先されることについては、全く異論はない。感染を恐れ、戦々恐々とする人たちの気持ちも、十分理解できる。そして、現状のワクチン接種の体制についてのジレンマや不満もある。

 

しかしそれらを払拭しきって、あるいは自分のことに一生懸命で、勢いよくワクチン接種をしに来る若者を見ていると、ワクチン接種を施す立場として、単純に嬉しくなる。

 

ワクチン接種をする人は、すべからく病気になりたくないと思っている。実際に『感染したくない』と言ってワクチンを接種する方が多い。

 

けれど良い意味で病が日常に無い若者は、そうは言わない。

 

『勉強している最中なので左手に打ってください!』と感染リスクよりも副反応による勉強の遅れを重要視される30代の方、『仕事の合間に来ました!』と汗だくの銀行員の方、『妊娠37週目です』と笑顔の妊婦さん、『柔道部だけど、入試モードに入りました』と言う中学生…。

 

清々しい人たちだ。

 

医療現場では、患者さんの緊急性と重症度が高ければ優先されるが、そうでない場合は当然ながら平等に扱われる。例えば極端な話、当クリニックに天皇陛下が来院されたとしても、緊急性がなければ、陛下も順番をお待ちいただくことになる。陛下よりも先に受付された患者さんを、陛下よりも先に診察する。

 

今回のワクチン接種に優先順位はついているけれど、医療現場においては救命が第一であり そのための優先順位は守られるべきだけれど、それは、命の重さの順列ではない。

 

私というちっぽけな者であれ、天皇陛下であれ、もしも存在しなかったら確実に何かが狂う。

 

(マッカーサーと昭和天皇)

 

何かが狂ってもそれに準じた未来は存在するだろうが、それは、今、日々の具体を生きている者にとっては与り知らない未来である。

 

 

2021年08月22日
ドーピング
  •  

 

スポーツは感動を生む。

 

汗や涙を流して頑張っている人を見ているだけで胸が熱くなる。無意識に応援したくなる。

※2016年リオ五輪。男子100m×4リレー。日本チームの最終走者は, 一瞬, ジャマイカの最終走者(ウサインボルト)の前を走った。日本は銀メダル, ジャマイカは金メダルであった。手に汗握る40秒間のレースだった。

 

 

スポーツは平和だ。

 

1896年に始まった近代オリンピックは、世界大戦中は延期にもなったし、政治的理由から非参加国となる国もあるけれど、いざ開催されたら、純粋にスポーツに没頭している選手がいて、それを損得感情なしに応援している人がいる。スポーツ選手の大半は物欲を超えて競技を極めることに一生懸命になり、オリンピックはいわば国を背負った戦いなのに、戦争には発展しない。戦争でないならば、すなわち平和である。

※ヒトラー政権下で行われた, 1936年ベルリン五輪。

 

だからだろう、ドーピングという単語を耳にすると、胸がざわつく。なぜドーピングが悪とされるのかについて確たる理由を提示されなくても、ドーピングは『スポーツマンシップに反する』『スポーツの価値を損なう』と言われたら、簡単に受け入れることができる自分がいる。

 

しかし冷静に考えてみると、スポーツ選手が能力の限界に挑もうと訓練し、その訓練の一助として用いた手段をドーピングと見なし制限を加えるというのは、酷なことである気もする。どうしても人間には知恵が備わっているので、スポーツ選手が身体を鍛える過程で、ドーピングと言われてしまう手段に自然に行き着くのは、至極当然なことのようにも思えるからだ。

 

ドーピングの語源は、南アフリカの原住民(とある部族)において、厳格な祭礼や意を決した狩猟の前に飲んだ強い酒(ドープ:dop)に由来しているという。

 

スポーツの傍観者である私にも『スポーツマンシップ』『スポーツの価値』についての持論はあるけれど、いわば私の持論というべきスポーツ精神論と、現実に真剣勝負の世界にいるスポーツ選手にとってのドーピングとは、同じ土俵で考える事象ではないように思えてくる。

 

因みに、医学にはスポーツ医学という分野があるため、日本の医師は皆、否応なしに一度はドーピング検査について学ぶ機会がある。特にスポーツ医は、スポーツの現場でドーピング検査の証明書を発行する役割を担い、スポーツ選手の身体を預かるなど、人間の生命もさることながらスポーツ選手の選手生命というものを扱う、特異な医師だ。

 

学生時分にスポーツ医の先生の講義を受けたが、非常に興味深かったな…。

 

私たち人間は機械ではないから、白黒で区別できないものは『灰色:グレーゾーン』に分類する。それと同じようにドーピングにもグレーゾーンがあり、ドーピング検査基準にもグレーゾーンが存在するということを知った。

 

オリンピック史上でドーピング’疑惑’とされている事例は、どうやら、このグレーゾーンに分類されていたに過ぎないのだ。医学的かつ科学的にスポーツ選手の尿や血液の成分を調べ、その成分の一つが来年に禁止成分に分類される成分であれば、今年はグレーゾーンへ分類されるだろう。しかし、灰色に分類された選手は、社会的かつ心情的には黒であると評価されがちだ。

 

※1988年ソウル五輪。ジョイナーは, 女子100mと200mで世界記録を樹立。男性化した体躯, 29歳という若さでの引退, 38歳という若さで死亡したこと, ドーピング検査技術が未発達であったことなどが, ドーピング疑惑を生んだ。まさに今日, 東京五輪 女子100mにおいて, ジャマイカの選手が33年ぶりにジョイナーの五輪記録を更新したが, 五輪以外のジョイナーの世界記録は未だ破られていない。

 

一方で、グレーゾーン的逸話には惹きつけられやすく、ドラマチックに感じる部分もある。とすれば話の論点は、ドーピングそのものが悪だ何だという事ではなく、ドーピングという人間臭い性質のものを生みだす真剣勝負の世界にあるスポーツというのは、しのごのいわず、単純に魅力的であるとも言える。スポーツは精神の糧だ。

 

 

テレビの前で『頑張れー!』とオリンピック選手に声援を送りながら、何となく日常のストレスから解放されているこの頃です。

 

 

 

以下、ドーピング検査の実際について、簡単に記載致します。特にスポーツ大会に縁がある方などは、自身の選手生命を守るためにも知っておくべき知識だと思われます。また、スポーツと無関係な方にとっても、なかなか興味深い検査だと思われます。ぜひ御一読ください。

 

ドーピング検査は、唐突に行われます。競技終了直後に呼び止められ、検査をするよう促されます。一般的には尿検査で行います。病院で行われる尿検査と違うところは、選手がトイレで排尿する時、選手と同性の検査官が傍で排尿の状況を確認するというところです。これは、本当に検査対象となる選手の尿であることを確認するためです。

男性選手は真横から、女性選手は正面から、排尿しているところを確認されます。スポーツ医の話では、検査する方(検査官)もされる方(選手)も、何だか気まずい感じがするとのこと。しかし、男性選手の中には『見ろ~』と言わんばかりに元気よく排尿し、検査官が『失礼します!』と恐縮しながら排尿状況を観察するような、明るい雰囲気で行われることもしばしばだとか。ちなみに未成年の選手に対するドーピング検査については、親の許可を得て行っています。そして検査官が検体(選手から採取した尿)に不正な物質を混入することの無いよう、カップに採った尿は選手自身が持ち運びます。

 

そして採取した尿に、蛋白同化男性化ステロイド(SSA)、EPO(造血剤)、成長ホルモンなどのペプチドホルモン、アンフェタミン(覚せい剤)、利尿薬…などが含まれていないかをチェックします。

 

お気づきでしょうか?

 

つまり、筋肉モリモリになるような薬、気分が高揚するような薬、体重を絞るような薬、酸素を取り込みやすい体にする薬などが禁止されているのです。

 

そこで問題になってくるのが、病気に対して使用している治療薬です。糖尿病治療で使用するインスリンは体重の変化に関係するし、気管支喘息で使用する吸入薬は気管支を広げて空気を取り込みやすくする気管支拡張薬や炎症を抑えるためのステロイドが含有されています。また、高血圧症や心不全で使用するβ遮断薬は心臓を休める薬なので緊張を抑え集中力が増すし、利尿薬は体重減少を促します。

 

よって、何らかの病気を持ち、定期的に治療薬を服用しているスポーツ選手は、『治療目的で薬剤が必要である』という証明書が必要になります。TUE(治療使用特例)を申請しなければなりません。医師が選手から使用している治療薬について話を聞き取り、TUEをJADA(日本アンチドーピング機構)に申請します。

 

因みに、世界大会などでのドーピング検査は、31カ国に設置してあるWADA(世界ドーピング機構)という機関が担っています。そしてこれらの機関にもチェック機構がはたらいています。実際、過去にはモスクワ(ロシア)のWADA機関で不正が行われたという事例があり、その検査機関には資格停止命令が出されました。ロシア選手から採った尿カップを、トイレに作った秘密の壁を通して他人の綺麗な尿カップとすり替えたという事件でした。

 

とにもかくにも、ドーピング検査で引っ掛かることは、スポーツ選手にとって、とても痛手になることは間違いありません。砲丸投げの室伏選手は、以前、金メダルを取った外国人選手がドーピング検査で陽性となり金メダルを剥奪されたことで、試合後に銀メダルから金メダルに繰り上がりましたが、やはり、後々ではなく、表彰式で金メダルを贈呈された選手の姿を見て、国歌が流れる中で日の丸が昇る光景を見たいものです。また、1988年のソウル五輪(陸上)では、ベンジョンソン VS カールルイスの男子100m決勝が熱く繰り広げられた後、ベンジョンソンが薬物失格となりました。スタノゾールという蛋白同化男性化ホルモンが検出されたとのことでした。

 

※カールルイス(左), ベンジョンソン(右)。1988年ソウル五輪にて。

 

ドーピング禁止が叫ばれるようになった背景には、古くは1865年に水泳選手がアンフェタミン(覚せい剤, 興奮剤)を使用したという事例から、1960年ローマ五輪の自転車競技でオランダの選手が興奮剤を使用し死亡した事例、競馬において市販のアリナミンVを大量に飲ませられた馬が失格になった事例、2000年代には自転車競技のツール・ド・フランスにおいてドーピングによるタイトル剥奪が多発するなど、様々な出来事があります。

 

※2006年ツール・ド・フランスにて。観客が『ツールドドーピング』とドーピングを風刺した垂れ幕を掲げるほどのスキャンダルに発展。

 

そして意図的に薬物を使用していないとしても、ラグビー選手が使用した育毛剤にメチルテストステロンという男性ホルモンが含まれていたことで問題になったり、飛行機が苦手という理由で飛行前に飲んだお酒(アルコール)が問題となったり、風邪薬に含まれているエフェドリンなどもドーピング検査では引っ掛かる物質に含まれています。禁止薬物や監視薬物が何か、ということについて語りだせば、コーラや玉露(日本茶)に含まれるカフェインにまで話は及びますし、また、市販のサプリメントに至っては、国によっては成分表示が曖昧なものも数え切れないほど沢山あります。

 

スポーツ選手の方は、ぜひぜひ、自分が摂取している物について十分に注意してください。禁止薬物や監視薬物の規定については随時更新されているため、試合後に『知らなかった』と言っても通らないことが多く、せっかくの功績や記録を剥奪されることにつながります。最近では、ロシアのテニスプレイヤーであるマリアシャラポワ選手が、2006年から医師の処方のもと使用していたメルドニウム(疲労回復やスタミナ増強に効果があるとされる薬剤)が、2016年にWADAによって禁止薬物に認定されていたことを見落としていて、問題となりました。

 

インターネットであらゆるサプリメントや薬物などを簡単に購入できる時代ですので、何の成分が含まれているのか、信用に足る商品なのか、成分表示は正しいのかなど、自身で調べることができる知識を持っておくことが肝要です。

 

スポーツにおいて、記録更新のために用いられる薬物や訓練方法は、恐らくこれからも常に開発され続けます。その度に、スポーツのルールとして、是とするか非とするかを問う…。これはもはやイタチごっこともいうべき有様です。現時点でWADAが既に、今後発生してくるであろう ‘遺伝子ドーピング’ の禁止を規定していることからも、このイタチごっこの凄まじさが垣間見られます。

 

※ボクシング映画『ロッキー4』では, ロッキーの訓練方法(①)は善とされ, ロシア人選手の訓練方法(②)は悪として描かれています。

①雪山で, そりを引きながら体を鍛えるロッキー。

②運動機器を駆使してトレーニングに励む対戦者。

 

泥臭い努力は大いに人を引き付ける。一方、知恵がある私たち人間は、より高みを目指すための努力として、様々な方法や薬物を開発していく。そして、時代の流れに沿いながら、スポーツの公平性という曖昧な概念を考慮しながら、科学的かつ医学的根拠も加味したうえで、常に更新され続けるドーピング規定。それをひっくるめて、やはりスポーツとは奥が深いものだと思わずにはいられません。

 

 

最後に・・・

スポーツ選手の方は、自身が服用する薬(風邪薬、胃腸薬)、飲み物、サプリメントが、ドーピング検査に引っ掛からないかどうか、十分に気を配っておきましょう。そして困った時にはスポーツ医に相談しましょう!

 

日本スポーツ協会のホームページには, 有効期限のある『使用可能薬リスト』が随時更新されて記載されています。例えば上の写真は2021年4月の改定版であり, 有効期限は2021年12月31日までとなっています。

 

(某大学医学部の授業講議も参考にしています。写真はGoogleやYouTubeより拝借させていただきました。)

 

 

2021年07月31日