インフルエンザ予防接種の時期になると、患者さんとの会話の中で『受験』という単語がよくでてきます。
中学受験、高校受験、大学受験…。
10月や11月は、まさに受験生、子供や孫が受験生です と言う患者さんなど、多くの方が予防接種をされます。
⭐️中学校は、大人へのの階段を一つ登る時期だと思います。受ける教育と、友達や家族の影響で、価値観や性格が形作られる初期段階のように思います。
⭐️高校は、社会人への通過地点。学識や運動能力、遊びや笑いのセンスなど、他者との差が出始めます。だからこそ楽しく、一生の友達を持てるチャンスだし、将来 迷い彷徨った時に頼れる仲間を作ることができる場所です。周囲の影響を受けやすく血気盛んな時期であり、悩みも多いと思いますが、挫折しても十分やり直せる若者であることは、最大の強みです。
⭐️大学は、概ね 職業を決める場所だと思います。勿論、職業は一つに限ることもないし、色々な経験を積んだ後に決めて良いと思います。しかしどちらにしても、大学というのは専門性が高まるので、これから生きていく上で自分の糧となる仕事内容を模索する、人生初期の転換期です。
受験生諸君!!
是非、後悔の無いように受験校の選択をし、希望の学校に合格できるよう努力して下さい。
恥ずかしながら、私は何度も受験に失敗した経験があります。だからこそ、困っている受験生を前にした時は、私が出来るサポートを精一杯していこうと思わずにはいられません。
受験期に体調を崩し、困った時は、早めに気軽にご相談下さい。
市中病院や大学病院で勤務していた時は感じなかったけれど、開業医になったからこそ実感することが 結構あります。
その一つは、癌(悪性腫瘍)が多いということ。勿論、医師として 癌の統計については既知ですが、開業医になって より実感として捉えるようになりました。
(資料:国立がん研究センターがん対策情報センター)
因みに癌には胃がん、肺がん、肝臓がん、大腸がん、子宮がんと色々ありますが、実は循環器疾患の中にも心臓腫瘍はあります。頻度的には全剖検例の0.1%以下とまれな疾患で、そのうちの約70%が良性腫瘍、30%が悪性腫瘍といった割合です。良性腫瘍の中では最も多いものが粘液腫で良性腫瘍の約半分、全心臓腫瘍の3割強を占めます。
よって心臓腫瘍の症例は少なく、また、勤務医で循環器内科医として働いている時は、他科の疾患を直接 治療することもありませんので、自然と がん疾患と関わる機会も少なくなります。しかし、開業医として診療をしていると、あらゆる科の患者さんを診ることになるため、癌が発覚することに しばしば遭遇します。
開業医は全ての科に目を向け、病の早期発見をする役割を担っているため、長く診てきて親しみが湧いている患者さんに癌が発覚すると、勤務医の時には感じなかった責任を深く感じてしまいます。
また、血液検査や超音波検査といった 当院にもある簡便な検査で、ある種の癌のスクリーニングは可能であり、自分が癌の早期発見を担う立場にあると自覚する一方、実際に日常診療をする中で、その簡便な検査を患者さんに勧めることが非常に難しいと感じるようになったのも、開業医になってからです。
大きな病院に入院や通院されている患者さんは、比較的 検査に積極的です。しかしクリニックには基本的には病状が安定していている患者さんが来られるので、『私は健康!』と思っている患者さんが多く、検査を拒否されることがしばしばあります。
癌が発覚する度に『拒否されて面倒臭がられてもレントゲン1枚 撮っていれば…』『嫌がられても、せめて半年に1回は血液検査を行っていれば…』『希望されれば、すぐにエコー検査をしたのに…』と、残念さと後悔の念が押し寄せます。
開業医になったことで、深く検診目的の検査の重要性を実感するようになりました。
何か気になる方は、いつでも気軽に検査希望を申し出てください。また、『関係ないかも』と自己解決せず、何でもご相談ください。患者さんの発言を聞くことこそが、病を見逃さない最良の方法だと考えています。
(当クリニック 待合室にて)
(左:婦長、右:母、写真:前院長)
実はこの詩、26年前に前院長が開業した当時から掛けているんです。
私が初めにこの詩の存在を知ったのは、幼稚園児の時でした。今は亡き母方の祖父の家の居間に、賞状サイズの筆書きで、幼稚園児だった私が椅子に登れば見える高さに掛けてありました。
時が経ち、前院長が当クリニックを開院する時、『あの詩を待合室に掛けたい。』と言ったので、祖父が特別に注文して 父にプレゼントしてくれました。小学4年生に成長した私は、あの筆書きの『青春』が掛けてある祖父の家の居間にいるような心地で、新しくプリントされた大きな額縁に入っている『青春』を改めて読みました。
そして今、あの頃と比べて確実に歳老いてはいるけれど、真に老いたくはないと、随所に思います。医師として毎日患者さんと向き合っていると 患者さんから教えられることが多々あり、それらが私を叱咤激励してくれるからです。
例えば、関節リウマチで手がとても痛いのに、いつも笑って、最近、英語の勉強とピアノを始めた70代の患者さんがいます。
例えば、数年前に息子さんを亡くされた60代の女性は、高血圧症の治療のため、傍目には変わらず今まで通り明るく優しく上品な雰囲気のまま、当院に通院されています。
例えば、大動脈炎症候群で心臓移植待ちだったの50代の患者さんは、心不全入院を繰り返す度に、いつも私に歴史の講義をしてくれました。
例えば、重症心不全でCCUに入院していた20代の患者さんは、命が尽きる間際まで、母親を気遣っていました。
そういう患者さんと対峙する度に、素直に、私も頑張ろう!と精神が若返る心地です。
因みに、ここ数年の間で特に印象深い患者と言えば、やはり 亡くなってしまった私の父親でしょうか。
当クリニック前院長 阿南健(父)は、肺癌の脳転移が発覚した入院前日の夜、身体をフラフラさせながら書斎でカルテの整理(いつもの仕事)をしていました。そして入院中も、出来る限り 当院スタッフと電話のやり取りをしながら仕事を続けていました。その傍ら、病室には趣味のカメラとフライフィッシング(釣り)の道具を持ち込んで眺めていました。
父は最終的に私の勤務している病院に入院していたので、父の病室は 私の仕事の合間の休憩場所にもなっていました。私は白衣姿で父の病室を毎日 出入りするようになり、また、当直の時を含め度々、父の病室のソファで寝泊まりしていました。
その時の父との会話の内容は 家での親子の会話と変わらない感じで、この薬はどうだとか、この症例はああだとか、同職業どうし医学的な内容の お互い興味のある楽しい話が主でした。
父は既に肺癌の多臓器転移の状態だったので、父が父親として見せたくないであろう弱っている姿や、私が娘として見るに絶えない症状を目にすることも、当然 多々ありました。夜中のシンとした病院の中で、電子カルテ内の父の悪化している画像所見や検査所見を見ながら、自然と涙が溢れることもありました。
しかしそんな状況の中でも、父は治って仕事に復帰するつもりでいたので、積極的に抗ガン剤治療を行いました。
一方でモルヒネ(強い鎮痛薬)を投与しても痛みを訴え続け、徐々に痛みで身の置き所が無くなってくる父…。私は医者として無力さを感じながら、そして医者なら父の苦痛を取り除くために鎮静をかける(強い睡眠薬を投与する)べきだと思いながら、躊躇していました。現状を診れば、鎮静をかけたら もう父は永遠に目覚めないという確信があり、一方で 娘の我儘として、まだ父と言葉を交わしたかったからです。
一日の勤務終わりに父の病室に行くことが日課になっていた私は、ある日 いつものように深夜の寝静まった病棟を歩きながら父の病室へ向かいました。
消灯した病室のドアを静かに開けると、薄暗い中、シューシューと酸素投与の機械音だけが聞こえます。点滴の投与速度とか酸素投与量とかバイタルなどの確認をして、そっと父を覗き込むと、ハタと父が目を覚ましました。『沙織、まだ病院にいたのか。何時だ?ちゃんと帰れ。』と。そして他愛もない会話をしていたら、すぐに痛みを訴えてきました。
私が起こしてしまって目を覚ましたのではなく、痛みで眠れていないのだろうと直感し、背中に冷たいものが走りました。
段々 いつものように父が息苦しそうになってきたので、すぐに吸引して酸素投与量を増やして…。私が平静を装ってあれこれ対応している最中、父はハアハアと深い呼吸をしながら横向きになって、ベッドの柵をギュッと掴みながら『沙織、もうダメかな?』と、薄暗い病室に酸素投与の機械音がこだまする中、静かに言いました。
初めて聞いた、弱音とも諦めとも懇願ともいえる父のこの一言は、一生、私の耳から離れないと思います。
少し落ち着いた父が『もう寝る。沙織も帰れ。』と言い、しばらくして小さなイビキをかき出したので、音を立てずにそっと病室を出ました。
再び 深夜の寝静まった病棟を歩きながら、『明日、父に家族の顔を見せて、それから鎮静をかけよう…。』そう決断しました。
それから数日後、普段通り休日の病棟で仕事をしていた時、白衣のポケット内のPHSが鳴ったので、普段通り手探りでポケットから取り出してPHSを耳に当て、『はい、阿南です。』と応答しました。父の主治医からの電話でした。父の脈拍数が落ちてきたとの報告でした。
最期だ…。
すぐに父の病室に走りました。この時ばかりは『阿南先生、ちょっといいですか?』と私を呼び止める看護師の用件を後回しにし、予定していた受け持ち患者の回診も後回しにしました。
焦って父の病室のドアを開けると、家族皆が父を囲んでおり、母がしきりに父の名前を呼びかけていました。すぐに父の胸に聴診器をあてると、鼓動がだんだん遅くなっていきました。しばらくして、何も聞こえなくなりました。ベッド上の父を囲む家族皆の前で 父の死亡確認をした私は、医者だったのか娘だったのか、よく分からない感覚でした。
今でも たまに待合室に掛けている『青春』や、廊下に掛けている父の写真を見つめます。一介の開業医だった父だけれど、少なくとも私には最高の先輩だったな と思いを馳せ、死してなお、今後の私の医者人生に影響力のある一人であり続けるんだろうな としみじみ思い、父は最期まで青春の中にいたと確信しています。
(右:前院長 ※当院廊下の写真より)
人生には、思いがけない事が起こる。
人はいつでも、生と死の狭間に立っている。
病を抱えている患者さんを相手にしていると、生きている間は生きる事が責務だと思わずにはいられません。
老いて病んで体が言うことをきかない辛さは、私も誰しも一度は経験していることだと思います。けれど、それを払拭して余りある精神で、意味のある一生を得たい。
たくさん感動できるように、より多くの知識と言葉を得るよう努める。安心や温かみを感じるために、人や動物と触れ合う。確かな満足感を得るために、自分と家族と社会に 出来る限り貢献する。教育や情や助けなど、有り難く得たものは他者に還元する。
歳老いた今からでも、やれる事を精一杯やろうと思います。青春を謳歌するために。
本日、ホームページを開設しました。
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