終わりは始まり

 

 

いわゆる『お腹の風邪』をひく人が多く来院される今日この頃です。ノロウイルス感染も流行っており、下痢症状の患者さんが多いですね。

 

そして毎年のことですが、多くの受験生が病院を受診される時期でもあります。私の妹が大学生の傍ら家庭教師のアルバイトをしていることもあり、何だか現在の受験事情などに詳しくなってしまい、そうすると、自然に自分の時代の受験期が思い出されます。

 

あの頃、東京大学の入試問題で数学の1⃣の問題が『加法定理を証明せよ』であり、受験生や受験業界に衝撃が走ったことを思い出します。

 

唐突に数学の話を持ち出しましたが、ハッキリ言って私は数学が苦手です。何故かというと、数学のテストでは平均~合格点レベルにしか到達できなかったし、解答の通りに解答することができるというだけで、独自の解法を導き出すという芸当はできなかったからです。数学ができる!という実感を持ったことが無いから、結局は苦手科目でした。

 

けれど、そんな私でも数学って興味深いな~と思えることがあります。

 

 

それはズバリ『0 (ゼロ) 』の概念。

 

 

7世紀頃のインドで取り扱われるようになった0(ゼロ)という数ですが、私たちは既に『インドは0(ゼロ)を発見した国』と認知しており、言わずもがな『0(ゼロ)=無』という感覚を、多くの人が持っていると思います。※今回は、0(ゼロ)が’存在する’という議論については省略し、0(ゼロ)が存在するとしたうえで話を展開させていただきます。

 

 

そして『0(ゼロ)が存在する=無限が存在する』という理論の壮大さよ…。

 

 

1/100は1/1000より大きい数です。1/10は1/100より大きい数です。つまり分数の分母が小さければ小さいほど(分母が0(ゼロ)に近づけば近づくほど)大きい数となり、ひいては∞(無限大)に近づくということです。

 

0(ゼロ)が存在するということは、とりもなおさず無限が存在するということなのです。

 

ちなみに古代では0(ゼロ)の存在を認めるということは、無限を認めるということであり御法度でした。終わりがない無限というのは恐れられていたのです。この世はお盆のような形であり、それを象が支え、その象を亀が背負っており、亀は海に浮かんでいる。海の端はどうなっているかについては『法典に無いため考えてはいけない』とされていました。

 

 

 

0(ゼロ)=『無』が存在するから『無限』が存在する。

 

 

この数学は、宇宙の存在にも発展する。

この数学は、ある道徳にも通じる。

 

例えば死を無とすれば、死はゼ0(ゼロ)と置き換えられる。死を0(ゼロ)とするならば、それを起点として無限が存在する。ならば、死は無限への’旅’の始まりとも言えよう。

 

 

終わりとは始まりでもあるのだ。

 

 

2021年11月30日