普段の診療で『最近、難聴でね…』と補聴器を購入されたという患者さんや、『コロナが落ち着いたら白内障の手術をしてもらおうかな』と報告される患者さんなど、数多くいらっしゃいます。
解剖学の上では、眼、耳、鼻、皮膚などは『感覚器』と呼ばれ、一般的に ‘五感’ として知られる『感覚を担っている臓器』を指します。そして医学的に『感覚』とは痛覚、温覚、圧覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、平衡覚などに分類されます。
痛くも痒くもないのに病院に行って敢えて治療を希望されるというのは、その感覚器がいかに生活の中で重要であるかを物語っていると思います。
ちなみに医学的には様々な複雑な感覚の伝導路が知られています。脳の表面(大脳皮質)には運動と感覚の中枢があり、それぞれ運動野(一時運動野)、感覚野(一次体性感覚野)と呼ばれています。
ペンフィールドマップ:脳外科医ペンフィールドが、脳外科手術の際に切開した脳に電気刺激を加えて(運動野や体性感覚野に電極を当て)患者の反応を観察し、大脳皮質と身体部位との対応関係をまとめた脳の地図です。運動野も感覚野も、身体の各部位を受け持つニューロン(神経細胞)が、ホムンクルスが逆立ちしているように分布しています。
ホムンクルス:大脳皮質の相当領域の面積に対応するように体の各部分の大きさを示した人形。通称、脳の中の小人と言われております。
(病気が見えるvol 7)
この感覚受容体(感覚器)~伝導路~脳のどこかに少しでも異常があれば感覚も異常となるわけです。例えば切断によって失ったはずの手足が存在するように感じられる幻肢運動という現象がありますが、それは上記の脳地図が書き換わっていることで生じると言われています。
さらに神経の解剖、伝導路、脳の機能に至るまでの生理学を知ると、複雑で難解ではあるけれど、非常に興味深いものがあります。
知れば知るほど『見える』『聞こえる』過程においては自分の意志が全く働いていないことを思い知り、『確かに見える』『確かに聞こえる』ことに懐疑的になってしまいます。もはや ‘存在すること’ すら疑わしくなってくると、それはもうアリストテレスの第一哲学の様相です。
とはいえ一方で、医学や哲学の追及なんて、どうでもいいと思う場面もあります。
医学的にいう感覚と自分が思う感覚に乖離があったとしても、自分にとっての感覚は自分が思った通りなのだから。哲学的に存在していないと言われようとも、自分は存在していると思って生きているのだから。
桜の花びらが舞っている光景を見れば春を感じることができるけれど、その光景を目にせずとも、暖かい風が肌に触れただけで春を思うことができる。実際に大事な人の手を握っていなくても、声を聞いただけでその人と繋がっているという想いを馳せることができる。
感覚器が伝える先に有るものは、曖昧な感情だ。それは医学的には立証されないけれど、他者には完全に理解はされないけれど、自分にとっては確かなものだ。それで良いし、それが大事なのだ。
-The best and most beautiful things in the world cannot be seen or even touched. They must be felt with the heart.-世界で最も素晴らしく最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできないのです。それらは、心でしか感じられないのです。重複障害者(盲聾者) ヘレン・ケラーの言葉より
おすすめ映画:
ヘレン・ケラーと、彼女の家庭教師であるアン・サリヴァンことサリバン先生について描かれた戯曲です。クライマックスに至るまで世界中の多くの人が既に知っている内容ですが、感動します。ヘレン役のパティ・デュークが、オーディションの際に大きな物音に反応しなかったという逸話も有名です。