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新しいワクチン接種を行うということ

 

 

当院での新型コロナウイルスワクチン接種についての詳細は『お知らせ』『新型コロナウイルスワクチンについて』をご参照ください

 

『ここのクリニックで新型コロナウイルスのワクチンを接種したい!』と訴えられる当院かかりつけの患者さんが多いということに、正直なところ驚いています。私は『新しいワクチンを接種をするならクリニックとかではなく、大病院や集団接種会場で接種したい』と多くの人が考えているだろうと思っていたからです。

 

昨年5月頃から世界的に新型コロナウイルスワクチンの臨床試験が始まって以来、MEJMなどで多岐にわたる医学論文が続々と発表されている中、今月から日本でもワクチン接種が開始になり、クリニックレベルでの接種も推奨されるようになりました。この一連の流れは多くの人の予想の範疇であり、何よりワクチン接種の早期実践を望むことは誰しもが理解できる世界の総意でもあったと思います。ワクチン承認のための交渉など政治的側面はさておき、各国のワクチン開発事業は努力しながら現在も進行中であり、当院では新しいワクチンにあやかりながら適宜対応する方法を常に思案しているところです。

 

しかし実際に新しいワクチン接種を自院で行うということをシュミレーションすると、非常に煩雑なことが多く、また、様々なジレンマが交差するのも事実です。ワクチン接種に関する市との契約、予約システムの構築、ワクチンの手配、ワクチン接種に使用する物品準備、ワクチン接種後の請求…。普段の診療とどう並行して行うか、接種を希望する患者さんの予約をどう采配するか…。思案するも最適な方法が見いだせないまま、現在に至っているのが現状です。自院でワクチン接種を行おうとするだけでも大変なのに、まして国や市などの大きな単位で指針を決定するのは、さぞかし骨の折れる仕事であろうとも思います。

 

ちなみに、日本で医学生を経験した者は、先進国といわれる日本が他国と比べてワクチン接種に遅れをとっているワクチン後進国であるという事実を、様々な理由と併せて公衆衛生学として授業で学びます。したがって、それをなぞる様に『日本のワクチン接種は遅れている』との報道が加熱し、それに触発され『封じ込めが大事だ』と当たり前のことを豪語している人がいることも、大いに理解できます。けれど、自分が解決できないことを他人に強いている他力本願に気付き、社会的問題はすなわち社会の一員である自分も問題であると捉えなければ、本質を見抜けない。知らぬ間に従属させられたくなければ、自分が満足する結果を得たいのであれば、問題を明確にして解決するための方法を自分で考え、他者と協力しながら自分が出来る限りの事をしなければならないのだと思います。大学の授業ではなく現実として詳細に日本のワクチン接種のあり方を経験している今、私自身の机上の空論的考え方が通用しないことを実感しているが故に、非難されている政府やお役所の方々に同情を寄せてしまう部分もあります。

 

時に、難しく考えているつもりになっているだけだと自分に言い聞かせながら、しのごの言わずに、私は私で開業医として出来ることを粛々とやれば許されるだろうと思ったりもします。

 

時に『面倒やけん、ここでワクチン打ちたい』と言う患者さんを前にした時、そういう単純な意見を待つ人が居ることにすら考えが及んでいなかった自分に意気消沈し、同時に何とも言えない空虚感を覚えたりもします。

 

しかし結局は『安心できるから絶対にここで打ちたい!』『私なんかの年寄りが若い人よりも先に打つのは気が引ける』『先生は大変だろうけど、ここで打てれば有難い』『ここでワクチンを打つって決めとるから、待っとるけん!』と患者さんに言われると、切実にどうにか応えてあげたいという気持ちになります。地域のかかりつけ医として患者さんのニーズに応えるということが私の義務であるということを思い出させてくれて、加えて激励までしてくれて、奮起を促してくれる私の患者さんたちが居る…。いつも私の背中を押してくれるのは、患者さんからの温かい言葉です。医者冥利に尽きる瞬間というのがありますが、それは例えばこんな時なのだと、しみじみ思います。

 

 

有難いことに当院の心強いスタッフの方たちに支えられているという救いもあるため、どうにか今抱えている難を乗り切ろうと思っています。

 

 

 

2021年02月28日
雪。その心は…

 

 

昨夜、雪が降りました。

(2021/1/7 クリニック前にて)

 

雪が積もりました。

(2021/1/7 クリニック前にて)

 

雪が降ると感傷的になる母。

それに同調できない私を無味乾燥だと批判する母。

 

だけど私は私なりに、雪に物理学的な浪曼を感じている。価値観の相違である。

 

『価値観とは絶対的なものではなく、時代や文化や環境が違えば異なる。つまり価値観とは、人間を含め地球上の生物それぞれのものである(相対主義)』。確かに…。

 

およそ2500年前の古代、ソクラテスは言いました。『絶対的な正義は存在する(絶対主義)』。彼は正義とは何かの答えを探求したけれど、当時の世界において多数派を占める相対主義者から罪を着せられ、最終的には死刑になった。

 

プラトン(ソクラテスの弟子)は言いました。『私たちが見たり触れたりできる個々の物事は、実はイデア(真実在)という原型にすぎない。(イデア論)』’個々の物事’と’真の実在(イデア)’は厳密に区別されており、人間は既に’美のイデア’や’善のイデア’を内在させているが故に、美や善を感じるとのこと。イデアこそが本質的な絶対的存在であり、個々の物理学的な実体はイデアの影にすぎないという考え方。う~む。これは難しい概念だ。

 

確かに、例えば三平方の定理は宇宙が誕生した時から既に存在していたと考えられなくもなく、しかしその定理は物質として存在しているわけではなく、とすれば物質を超えた数学という世界(ある種のイデア)を想定した上で存在している定理だといえなくもない。数学的法則が何らかの形でとにかく存在しており、その後 人間が誕生して、その定理の存在に気づいたと片付けても良いかもしれない。とはいえ、主語を’数学的法則’ではなく’善悪や正義’に置き換えると、それは途端に理解に苦しんでしまう。宇宙誕生と同時に既に善悪や正義が存在しており、その後 人間が誕生して、善悪や正義に気づく…。う~む。

 

永遠普遍で絶対主義的な概念世界であるイデア界が成立しているのであれば、『善のイデアのイデアは?』『善のイデアと悪のイデアは矛盾するのでは?』という問いに答えられないことになるというのにも頷ける。性別、国籍、人種、文化、環境の違いに依らず、全ての生物に当てはまらなければならない概念なのだろうけれど、実際、母は夜中に舞っている雪を見て哀愁や美しさを感じ、私は雪の運動を見て物理法則を連想する。私の家の庭に居るであろう蟻(アリ)は、恐らく土に潜っているか雪を避けて動き回っているだけで、そこにあるイデア界が何たるかは言語化できない。

 

雪が舞う光景に哀愁や美しさを感じている母に対し『雪が美しいのではない。美のイデアが存在しているから美しいと感じているのだ。人間の理性や感性もイデア界にあるからこそ、雪を見ることでイデア界にある美の本質を想起することができるのだ。』なんて論理は通じない。そもそも母にとっては、どうでもいいことだ。

 

(さらに…)

2021年01月08日