昨夜、雪が降りました。
(2021/1/7 クリニック前にて)
雪が積もりました。
(2021/1/7 クリニック前にて)
雪が降ると感傷的になる母。
それに同調できない私を無味乾燥だと批判する母。
だけど私は私なりに、雪に物理学的な浪曼を感じている。価値観の相違である。
『価値観とは絶対的なものではなく、時代や文化や環境が違えば異なる。つまり価値観とは、人間を含め地球上の生物それぞれのものである(相対主義)』。確かに…。
およそ2500年前の古代、ソクラテスは言いました。『絶対的な正義は存在する(絶対主義)』。彼は正義とは何かの答えを探求したけれど、当時の世界において多数派を占める相対主義者から罪を着せられ、最終的には死刑になった。
プラトン(ソクラテスの弟子)は言いました。『私たちが見たり触れたりできる個々の物事は、実はイデア(真実在)という原型にすぎない。(イデア論)』’個々の物事’と’真の実在(イデア)’は厳密に区別されており、人間は既に’美のイデア’や’善のイデア’を内在させているが故に、美や善を感じるとのこと。イデアこそが本質的な絶対的存在であり、個々の物理学的な実体はイデアの影にすぎないという考え方。う~む。これは難しい概念だ。
確かに、例えば三平方の定理は宇宙が誕生した時から既に存在していたと考えられなくもなく、しかしその定理は物質として存在しているわけではなく、とすれば物質を超えた数学という世界(ある種のイデア)を想定した上で存在している定理だといえなくもない。数学的法則が何らかの形でとにかく存在しており、その後 人間が誕生して、その定理の存在に気づいたと片付けても良いかもしれない。とはいえ、主語を’数学的法則’ではなく’善悪や正義’に置き換えると、それは途端に理解に苦しんでしまう。宇宙誕生と同時に既に善悪や正義が存在しており、その後 人間が誕生して、善悪や正義に気づく…。う~む。
永遠普遍で絶対主義的な概念世界であるイデア界が成立しているのであれば、『善のイデアのイデアは?』『善のイデアと悪のイデアは矛盾するのでは?』という問いに答えられないことになるというのにも頷ける。性別、国籍、人種、文化、環境の違いに依らず、全ての生物に当てはまらなければならない概念なのだろうけれど、実際、母は夜中に舞っている雪を見て哀愁や美しさを感じ、私は雪の運動を見て物理法則を連想する。私の家の庭に居るであろう蟻(アリ)は、恐らく土に潜っているか雪を避けて動き回っているだけで、そこにあるイデア界が何たるかは言語化できない。
雪が舞う光景に哀愁や美しさを感じている母に対し『雪が美しいのではない。美のイデアが存在しているから美しいと感じているのだ。人間の理性や感性もイデア界にあるからこそ、雪を見ることでイデア界にある美の本質を想起することができるのだ。』なんて論理は通じない。そもそも母にとっては、どうでもいいことだ。